1952年(昭和二七年)

●飲み逃げ横行で早くも閉店の危機。“閉店大盤振舞”もあった。

わが青春の「ドンカク」/野村萬 - Man Nomura -

 いまだ戦火の余燼冷めやらぬ頃でした。私はまだ上野の東京音楽学校の学生で、万之丞を襲名したばかり、お酒も飲み始めた頃でした。貴方が演劇の勉強をしながら奥さんとおふたりで経営していた小さな酒場、今年五〇周年ということは開店いまだ日も浅い頃だったのでしょうか、偉い人たちの来るようなところではなく、みんな若くて、演劇論に泡を飛ばすグループの傍らには、声を潜める訳ありげなふたり連れが居たりして、まさに「時代の青春」の店でした。
 「ドンカク」という不思議な酒、中身は何だかよく分からなかったけれど、少ない量でベロベロになれる、女の子なんか連れて行って三杯なんか飲ましたらえらい事になっちゃう、酒は魔物という、ドンカクの威力が非常に魅力で、毎晩のように通ったものでした。

 貴方がマドリッドに店を出されて、その御縁でスペインへ狂言を演りに行ったこともありました。スペインのドンカクを飲んだかどうか、記憶は定かではありませんが、マドリッドの『どん底』にも呼んで戴いて、その節の楽しい思い出は今もなお鮮明です。お世話、本当に有難く思っております。

 私は、かつて貴方が通っていた池袋の舞台芸術学院の教師を勤め、理事も仰せつかっております。舞台で教えるなどということは、貴方と出会った頃には全く考えもしなかったことです。時を過ぎて、夜な夜な通った新宿もすっかり遠くはなってしまいましたが、貴方との御縁はまだまだどこかで繋がっているように思っております。

 世代世代、『どん底』に己の青春を重ねる人の多きを聞くにつけ、我が身のためのみならず、『どん底』の一〇〇年を願って止みません。
 それにしても矢野さん、あのドンカクは、何だったのかね。

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茫々 五十年/角田陽次郎 - Youjiro Tsunoda -

 ゴーリキイの『どん底』を帝劇でやった。主役の巡査ルカは滝沢修さん、その他、宇野重吉さん、中江隆介さん、伊達信さん、そうそう岩下志麻さんのご父君、野々村潔さんが下宿屋の親爺などなど‥‥。
 若い僕は文芸部の研究生で裏方手伝い。同じく若い彼も役者研究生で、その他大勢で出ていた。
 そんなに親しかった訳ではないが、その彼が新宿に飲み屋を開くというので行った。今の場所ではなく、少し離れた所。店の名前はお芝居からとったのか『どん底』。
 当時、『どん底』といえば、歌舞伎の『忠臣蔵』みたいなもので、新劇でこれをやれば必ず当るといわれた新劇の顔見世興行のようなもの。

 さて、その飲み屋『どん底』だが、彼と奥さんと二人でやっていたのか、それに店の姿かたちも、平家でカウンターがあってか、とか、何もかもが忘却のかなたである。たゞ、『迷酒どんカク』はあった。ある時は連日連夜の連チャン、又ある時は何年もご無沙汰したりと、勝手気儘なお付合をさせて頂いてきた。
 何時、今の所へ移ってきたのかも、覚えてはいない。

 “雪の白樺なみき‥‥‥”などと皆が和している頃は、勿論行かない。こっちは一人で勝手に行き、“迷酒どんカク”を飲んで(他のお酒は飲まない)‥‥。ビールやウヰスキーが飲みたい時は行かない。酔えば、言いたいことを言って帰ってくる。
 そんなことを、よくもあきずに五〇年やってきたと思う。

 夕方過ぎ、ほの明るいあかりの中で行くと、その表は、伊藤喜朔先生の舞台装置を思い起こさせ‥‥そのあたりから、往時の郷愁が始まる。
 店内も年期が入ってきていて、ゴーリキイの第二幕の舞台の趣きがないではない。この店の、一寸時間を忘れさせるそんな魔力が、暗かった青春をギグシャグと思い出させる。そしてその事は、何故か、不愉快ではない。その証拠に、“迷酒どんカク”はまづくない。
 気がついてみたら、俺達夫婦も五〇年。足腰元気なうちに二人で行かなきゃと思う店も本当に、数少なくなった。
 茫々 五〇年‥‥。
 “迷酒どんカク”で、『どん底』に乾杯!

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