1953年(昭和二八年)

●現住所に『どん底』新店舗開店。
●一升ビン、中華鍋などでインテリアを作り、椅子・テーブルを自作。

変らない風変り(抜粋)/小松方正 - Hosei Komatsu -

 四七年前私は劇団研究生。初公演のちらしに広告を載せてもらうべく私ははじめてどん底を訪ねた。当時のどん底は三坪ほどのせまい店であったがすでに名物の“どんカク”がありインテリアも現在と寸分違わぬ赴きであった。広告は快く引き受けてくれたばかりか代金も前払いしてくれた。出来たての貧乏劇団にきっと同情したのだろう。

 いま私はスペインの支店から帰ったばかりの矢野智と水割りのグラスを重ねながら改めて驚くべき事実に気がついた。彼の顔も姿も四七年前の初対面のあの時と少しも変わっていない。つくづく私は感じ入りつつ水割りをもう一杯‥‥。

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わが酒道開眼の時代/矢野誠一 - Seiishi Yano -

 初めてどん底に連れていってくれたのは、倉本聰ではなかったか。

 彼とは中学、高校の六年間を同窓ですごした。私に加藤道夫やアヌイ・ジロドーの名を教えてくれたのも彼だったから、いまにして思うとずいぶんいろいろなことを教えてくれたひととなる。もっともどん底のばあいは、別に彼に教えられなくとも、いずれ出入りするようになったはずだから、こればっかりは時間の問題ということだ。いずれにしても一九五三年のはなしで、彼も私も二十歳になっていなかった。おもてで酒をのむという、ただそれだけのことで、なんとなく大人の仲間入りができたような気分になれて、やっぱり楽しかった。

 はなしにきくカストリ、バクダンの時代はすでに過ぎ、小皿に乗せた厚手のコップになみなみとつがれた粗悪な焼酎を、梅かぶどうのエキスで割った三〇円の梅割り、ぶどう割りがもっぱらで、メーデーの流れ解散のあとのビヤホールで生ビールにありつくのが、ちょっとした贅沢だったわが酒道開眼時代にあって、たしか一杯五〇円したどん底カクテルには、高級酒にふれる感じがあった。
 それよりなにより、文学青年を気取った無為徒食の身にとって、どん底に足踏み入れたとたんに迫ってくる。明日の藝術家を夢見るひとたちがかもし出す、書生っぽさのあふれた熱気に、肝心のカクテルを口にするより先に酔わされた。

 もはや文学青年も、藝術家も、もちろん書生も死語の扱いで、若いひとたちのボキャブラリーにはない。そんな言葉がまだ輝いていた、文学も、芝居も、音楽も、美術も、金のある奴か、金が無くても平気な奴しかやろうとしなかった時代が、ついこのあいだまで存在していたことを、みんなもうきれいに忘れてしまっているとき、久方ぶりにどん底をのぞいて、そんな時代をしのびながらなつかしいどん底カクテルなど前にすると、帰らぬ時間が真底いとおしくなる。

 どん底や私たちが年齢をとったように、世のなかそのものにも、ずいぶんと皺がふえた。

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