1959年(昭和三四年)

●デモ隊への炊き出し、差し入れなどが増える。
●「うたごえ運動」全盛。

『どん底』讃歌/若狭健二 - Kenji Wakasa -

十八歳の時、先輩との待ち合わせでつたのからまる渋い店にやっとたどり着いた。そこは薄暗く、そして客はカウンターに男だらけ。ひたすらたえて待つ。それから約小一時間。ボーイさんに「ここはどん底ですよね?」「違うわよ。うちはラ・カーブ。どん底は上よ。下じゃないの!!」。あわててとび出してその店の扉を重く開けてから、四二年。

『どん底』はまるで長崎生まれの田舎もんにはダイヤモンドであった。友人も次々と増え働いてはすぐ飛び込む不思議な店だった。遂には三階で『うた声』なるものに出会いすっかりトリコになり従業員として、ルパシカを着て「若狭オンステージ」が一躍有名名物となった。どん角に酔いながらのロシア民謡は人生の最大の宝となった。そしてそれ以上の宝物は『どん底』という店そのものである。

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「どんファン」/相内崇 - Takashi Aiuchi -

「老舗」と云われた歴史あるデパートが消え、コンクリートのように固いと云われた銀行が相次ぎ破綻し、まさかのための保険会社もたくさん消えてしまった。金融機関の仕事を長くやらせて頂いている私にとっては、予測はしていたものの、やはりショックは大きかった。
 新宿は、昔も今も新陳代謝の激しい街だ。弱肉強食のはなはだしい街である。こんなご時世だから『どん底』の五〇周年は立派だと云いたかったのである。

五〇周年というから昭和二六年の開業である。私はその二年後の二八年に上京している。その頃の東京は、二本目の地下鉄・丸の内線が、池袋からお茶の水までやっと開通したところだ。タクシーは小さなルノーで、ワンメーターが六〇円だった。もりそばが三〇円、コーヒーは五〇円の時代である。テレビは白黒だったし一般家庭にはまだ高嶺の花だった。大卒の初任給は九〇〇〇円くらいだったと思う。新宿二丁目の「赤線」はいつもにぎやかだった。

昭和三〇年頃、下宿が変って内藤新宿の一丁目に移り住んだ。新宿通りを追分交番あたりまで、歩いて七〜八分のところである。『どん底』を知ったのはその頃だった。店の構えと『どん底』の看板が印象的だった。ある日、友達と入ってみた。ヨーロッパの小さな農家の納屋を思わせる雰囲気である。定かではないが、カクテルグラスで焼酎べースのカクテルを飲んだような気がする。いま思うと『どんカク』だったのかも知れない。その後二〜三度は行っただろうか、間もなく夜のバイト(ジャズバンド)をするようになり、行く機会はほろんどなくなってしまった。長いご無沙汰が続いた。

現在は何の因果か、再び学生時代に住んでいた内藤新宿の四谷大木戸に十八年前から住んでいる。となりの町内に『どん底』があるのである。

ところで「どんファン」の一人として、なぜ『どん底』なのか・・・・この機会に自問してみた。特別な理由がすぐ出てこない。が、やはり昔の印象のままがいいのかも知れない。しかし決め手は相川さんのあの「自然体のサービスマインド」「ヒューマンな態度」が「どんファン」をひきつけているのだろう。「老舗」とか、「歴史」に驕ることなく、油断せず、「どんファン」の満足を創造し、追求してもらえたらうれしい。「賞味期限」は十分ある。鮮度を高め、永々と『どん底』の存在感を示し続けてもらいたいと思う。それが多くの「どんファン」の期待心理だと思うから・・・・。

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