1960年(昭和三五年)

佐藤綾子 - Ayako Sato -

おくればせの青春。それは『どん底』でした。昭和二十九年銀座にクラブを開店してから、俳優座の方に連れて行かれて半世紀近く『どん底』の思い出は書き切れぬ程あふれている。色々な方達との出会いがあった。古い人で思い出すのは、本郷新さん、うちの店で女性達に囲まれて飲んでいる時『どん底』からの電話で血相変えて飛び出して行ったのが、六〇年安保の樺美智子さんの亡くなった日でした。後から私も『どん底』に行きましたらデモの人々のおにぎりの炊出しでスタッフ達が大さわぎをしてましたっけ。感動だ。次は新さんのご子息の暁さん。スピード狂の暁さんの車で死ぬ思いをしてました。それでもこりずに乗って遊んでました。今度は次男の淳ちゃん。お互いの悪態をついあい勿論いつも私が惨々な目に会いましたが、本当に楽しい人でした。この三人の方は今はなつかしい亡き人です。

智さんの追っかけでフランコ政権末期から去年まで、スペインには一三回行きました。うち七回は松村進さん主催の『スペイン気まぐれツアー』。毎回すばらしい旅でした。淳ちゃんとは四回御一緒しました。四十六年の間私にも色々な人生模様がありました。でも考えてみますと、いつも『どん底』を軸にして動いていた様に思うのです。

今年の一月、九死に一生の大怪我をしても今なお『どん底』参りはつゞいております。智さん、私が死ぬまで『どん底』を閉めないでネ。相ちゃん(相川さん)、富ちゃん(富沢さん)、いつもありがとうございます。『どん底』バンザイ!!

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どん底の唄/椎名和甫 - Kazumoto Shiina -

終演後の楽屋でメイクを落しながら、芝居中のセリフより張りの有る弾んだ声で『どん底』とヒトコト。
声の主は昨年八月十五日(敗戦記念日)に南支那海で眠るように旅逝った本郷淳さんでした。

六〇年頃の劇団(三期会)では、打上げパーティ淳さんの親友、智マスターのどん底の三階が定番で、勘定(会費)は観劇に来た友人、偉い彫刻家、作曲家、装置や照明の先生、先輩俳優達が劇団員より遥かに多額のカンパをネダラれ、足りなくなると、“帽子”が際限なく廻って来る仕掛けになって居りました。舞台では、何処に出ていたか分からない私達研究生にとって、どん底が打上げ役者としての貴重な出番でした。

いつの間にかギターやウクレレ、マラカス片手に劇中歌やロシア民謡、ウエスタンからラテンまで、三階は何でもアリのライブハウスと変貌し、あちこちに恋の花が咲いたり、始発電車が走るまでノドを競ったものでした。その後、歌の世界に転じた僕の初ライブレビューは、この三階だったような気がします。

「どん底四〇周年」の時、智さんと淳さんの突然の訪問を受け、“どん底の唄”をウタエとヒトコト。僕は、あの懐かしい三階時代を思い出しながら、「夜でも昼でも 〜 も牢屋は暗い」。久しぶりに昔の仲間達の顔を思い浮かべながら唄いました。

毎年、智さんから素晴らしい版画の賀状を頂きます。今年から、あの淳さんのイモバンの年賀状が届かないのが、とても寂しいです。
いろいろな想い出の詰まった“どん底”。いつまでも変らぬ姿で新宿の片隅で輝いて欲しい酒場です。ビバッ!!五〇周年乾杯!

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