1965年(昭和四〇年)

●三島由紀夫「憂国」映画完成試写会。

葛井欣士朗 -Kinshiro Kuzui-

もう半世紀も昔のことである。
昭和二六年、私は大学を卒業すると同時に、伊勢丹の前にあった三和銀行に就職、その職場は新宿東宝という映画館だった。
そのすぐ隣りの建物の壁面にはりついた様な横長のカウンターだけの酒場、一升瓶の底をくりぬいたランプが下り、若いマスターがひとり、矢野さんであり、開店間もないころの『どん底』であった。
時は流れて、昭和三七年、私は日本ではじめて創設されたアートシアターの支配人として、又、新宿にかえって来た。
映画終了後に演劇公演をはじめ、ATG映画の企画製作を手がけて、私はその劇場で幾多の素晴しい人々との出逢いを得た。
そして深夜、くりだす先は『どん底』。

忘れはしないその夜。昭和四〇年五月。劇団NLTの「近代能楽集」の公園初日を間近にひかえたある日、親しい知人から電話が入った。
「今夜劇場を貸してほしいんだが・・・。映画の試寫、素晴しい人を紹介します」と。
夜八時すぎ、事務所に颯爽と現れたのが白の細身のスラックスにポロシャツの男性、
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」あとは例の破顔大笑、極秘裏で上映した映画は「憂国」。
そしてその夜は『どん底』で祝杯を重ね、秋のツール映画祭に出品しようと話が決った。夜が更けても興奮はさめることなく、
「私はもちろん“筆の力”の方を好みますが、映画の持つ即時性、官能性には“筆の力”はかないません。映画は悪魔の芸術で、なんら抽象作用を経ないで現実を提示するからです」と映画を語った三島さん。
『どん底』であの日から三島さんとの交友が始まった。
ユシェット座の演出家、ニコラ・バタイユ氏や山口崇さん、加賀まりこさんと「夏」の終演後、足繁く通いつめたのも『どん底』。

そこには激動の時代の新宿への熱い想いと、懐しい人たちとの思い出がいっぱい埋められている。

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私とどん底/佐々木ミサ江 -Misae Sasaki-

どん底五〇周年お目出とうございます。
月日のたつのは早いものですねぇ。四〇周年が昨日の事のように思い出されます。
私がどん底に入ったのは、昭和四〇年六月、友達をたよってどん底に面接に行くと、狭い階段を登りつめた三階に事務所がり、そこには事務員で、ハルキーさん、おチエさん、石川さんがいて、三人の面接の結果、とりあえずレジからという事で、その日からレジに座ってお金の計算をする事になりました。
レジに座って二日目のことです。電話が鳴り、電話の主は冨士真奈美さんだったと想います。
「矢野さんいらっしゃいます?」
「矢野何様でしょうか」
「矢野智さんです」
「少々お待ちください」
「お客様で矢野智さんいらっしゃいますか」
「いません」
「もしもし、いらっしゃいませんが」
「あっそう、ありがとう」ガチャン。
しばらくして相ちゃんがおりて来て。
「さっきの矢野智さんてうちのマスターの事だよ」
「アレーッ」
経営者の名前も聞かずに働いていたのです。恥ずかしい失敗談ですが、今はなつかしい思い出になりました。
当時のどん底には、沢山従業員は居ましたが、今現在も居る、富さん、相ちゃん、中根さん、私の主人である「ササヤン」、「ササ」と呼ばれていた佐々木茂廣も居て、若さと、活気でムンムン、だって皆十八才から、二一、二二才だったのですから。とっても楽しい店でした。どん底も高度成長の波に乗り、店の売上げは、毎日、毎日、更新更新、の日々で、土曜日ともなると、客席いっぱい。階段も、立ち飲みの人でびっしり。身動きがとれない有様で、従業員は忙しすぎてパニック状態で、おこりっぽくなっているし、一階から、二階のトイレに行くのもひと苦労でした。いったい一日何百人のお客様がいらした事か・・・。土曜日はアパートを出る時
「さあ今日も戦争が始まるぞ」
と思いつつどん底に向った事が思い出されます。私達の一番いい時を過ごした心の古里。
『どん底』そして
「マスター」
いつまでも若々しくお元気で、五〇周年の後は、六〇周年も、七〇周年も私達を呼んで下さいね。とってもとっても楽しみにしております。

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