1977年(昭和五二年)

小松政夫 -Masao Komatsu-

白い壁、カウンター、椅子、今も、自分の青春時代がそこにある。
『どん底』万歳!
五〇周年おめでとう。

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どん底から這い上がった人々/牟田梯三 -Teizo Muta-

第一景
新宿末広亭の一寸奥。粗末な白木造りの建物のドアをあけると、スタンドのほかに二卓程の小さなバァだった。チーズにナイフを入れる男は、話しかけると一言答える位の愛想のないしかし憎めない風情で、もう一人の女性とも殆んど会話がない。この二人が舞芸で知り合い結婚した矢野智夫妻で、これがどん底との出逢いだ。ペアが多く、見てきた芝居の話あり、演劇論あり、耳を澄ますいろんな情報が聞こえてきて楽しい。この時飲んだのが未完成のどんカクだったような気がする。

俳優座養成所を卒業した二期三期の人が多く、劇団づくりを目指していた私には参考になる話が多かった。

第二景
一寸場所を移して、どん底を模したのか新築とは思えない渋い店になった。この頃になって、どんカクは一般的な地位を得たように思う。
客も少しずつ大人が増え、本郷新さんとか、東大から学習院に移った渡辺教授とその助手たちの顔を見るようになる。智さんは言葉少なだが、確実に客の間を取り持ってくれた。

隣りに空き地があり、客が溢れると空き地で盛り上がることもあった。私もテアトル・エコーを立ち上げ、キノトールさんの作品に夢中になっていた。どん底経営大盛況の観ありだ。

第三景
またまた居を移し、今度は木曽だか飛騨だかの旧家を買った材を持ち込み木造三階建ての本建築になった。ボーイさんはルパシュカを着て、食材にも凝った食物を運んでくれる。この頃からか三階にアコーディオンを奏でる人が常駐し、ロシア民謡を合唱するようになった気がする。

客の幅も拡がり、歌でウップンをはらす人が多くなったのだろう。私も結婚する相手が出来、北大仲間の鈴木礼三も結婚するというので、呼ぶ人もダブルし財政面でもということで、青山の小原会館で合同披露宴をすることになった。そして食事は全部どん底からもち込み、ボーイさんまで出張して貰った。当時ボーイさんは三期会のメンバーが多かったので、その中に愛川欽也氏がいたかどうか定かではない。その後火事があって地下が出来たのか。この辺の記憶は甦らないのだが、マドリッドに店を出し、智さんが滅多に現われないようになってからどうも足が遠のいてしまったように思う。

戯曲からとった店名とはいえ、よくどん底から這い上がって五〇年も繁栄したものである。こんな社会情勢になると、それこそどん底を味わい、シャレでは通じない方もおられるだろう。そこは考えようで、どん底の下はないのだから必死に戦い再起していただきたい。それには『どんカク』おすすめである。

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