1979年(昭和五四年)

砂川啓介 -Keisuke Sunagawa-

“どん底”などと、よく名付けたものと、今考えると、不思議なお店です。

“どん底”ですよ。行きませんよ普通は。不景気な時だったら、なおさらですよ。
でも、五〇年ですか?分からないものですね。

役者で喰えなかったさとしさんが、たヾ酒が好きだっただけで始め、特に真面目に、商売に励んだわけでもなく、毎日、たヾ呑んだくれていただけなのに、五〇年の歴史の中、半分以上も、スペインにまで行って、呑んだくれていただけなのに、未だに続いている。今の御時世では、全く類はありませんよ。

でも、そんな“どん底”に、一八才の頃から、ボクは行ってたらしいです。
何が良くて、何が面白くて行っていたのか、今になっても、よく分かりませんが、同じ時期に、ボクのカミさんも、行ってたというんだから呆れてします。カミさんは、一滴も飲めない。全く下戸なんです。俳優座の連中に連れて来られただけなんでしょうか、ボクは誰に連れて来られたのかは、全く覚えていません。さとしさんがいたから行ってた訳では決してないし、閉所恐怖症のボクが、あんな狭い階段を昇っていく訳はないし・・・・これは、ボクにとって、不思議の一つなんです。

でも、忘れた頃に、また行ってみたくなる不思議な“どん底”です。
とりあえず、五〇周年おめでとう!

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ヘンな青春/大山のぶ代 -Nobuyo Oyama-

四十数年前、一〇代の私はお酒がまるで飲めませんでした。そして今、六〇代の私はやっぱりお酒がまるで飲めません。
そんな私が先輩や、小沢英太郎先生達につれられて『どん底』に行き、正体不明の飲み物“どんカク”を飲み、ロシア民謡や労働歌を歌う仲間達とひたすら水かコーラを飲んで一晩中すごしていた・・・。不思議な毎日でした。

俳優座を卒業し、テレビ、ラジオで働きだした頃、冨士真奈美と同棲(?)ならぬルームメイトとして共同生活をするようになって、顔に似合わず酒豪のマナミと一緒に毎晩毎晩どん底通い。役者くずれのマスター智さんと仲良しになり今は亡き淳やその仲間達とゴンゴンどんカクを飲み美声で大きな声で歌いまくるマナミのそばで、水を飲みながら声も悪いから歌いもせずたヾひたすらその場の雰囲気に酔っていました。店も終り他の客が帰っても、マスターのお友達だからあたり前の顔をして居のこり、まだ飲み続けるマナミ達と駄洒落まじりのおしゃべりや、クイズで遊ぶ。

すきま風が入る店の只一つの暖房、一階から中三階までを暖めていた暖炉の火が消えかヽる頃、ベロベロになった皆が「暑いぞー」「薪がないぞー」「この椅子燃しちゃえー」、で椅子を壊し暖炉にほおりこみガンガン燃し、「あったかいー」「あつい位だー」と又一騒ぎして「あれ?あかるくなった・・・・夜があけたー、帰ろうかー」と、それぞれ引きあげ、家へ帰りウトウトとした頃、電話で「どん底が火事だーッ。今燃えてるぞーッ」と起こされる。二人ですぐ「見に行こう!」と飛び出して新宿へもどるとどん底は景気よく燃えている。「ワー良く燃えてる!」、消防車が近くまで入れずホースだけが店の中に入り消火している店のそばまで近づいて「ここでも熱いねえ」とどういう訳かニコニコ見物。智さんが火の中からプスプスくすぶっている本のかたまりを持って煙の中から飛び出してきて「新さん(本郷新)の彫刻、無事だったー」とニコニコ。火事見舞のお握りをパクパク食べ、「もう消えたー、帰ろうか・・・」と帰って又寝る。これが青春、というのなら何とも不思議な青春でした。結婚してからも夫砂川啓介と足しげく通い、六〇すぎてもまだ、たまにはどん底へ行く私は、今でもあい変らずペコ、じゃなくゲコです。

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