1991年(平成三年)

『新宿・どん底の青春』と『どん底ララバイ』/井ノ部康之 -Yasuyuki Inobe-

拙著『新宿・どん底の青春』を朝日新聞社から上梓したのは、一九九二年四月、ちょうど『どん底』開店四〇周年の頃だった。

これは矢野智さんが広島から上京し、舞台芸術学院で学んで夢みていた俳優への道を断念。清千秋さん、後に夫人となる洋子さんと三人で、『どん底』を開店し、「歌声酒場」となったこの店を舞台に若者文化が育ち、やがてそこから歌声が消えていくまでを描いたノンフィクションである。

私自身も四〇年ほど前の学生時代、故郷の越前大野と大学のある仙台とを往復する途中、何度か『どん底』に寄った。ロシアの民家風の店内、立ち込める煙草の煙、繊細で芸術家風な客の青年たち、あちこちで交わされている高級らしき議論・・・そこには都会的で自由な雰囲気があふれているように感じられた。それほど通ったわけではないが、私にとって、『どん底』は自らの心を解放し、魂を癒す場であると同時に、都会的刺激を受け、若者特有の野望を育む青春の道場だった。

後年、私はあの頃のあの雰囲気を『どん底ララバイ』という詞に書いた。だが、あの頃のあの雰囲気は遠いものになってしまった。しかし、「青春なに色・・・どん底色さ」の実感はいまも私の中で確実に生きている。

『どん底ララバイ』

腹を空かせた痩せ犬よ
ここは新宿三丁目
自信のないまま強がり言って
夢と希望とわずかの愛で
心の飢えに耐えていた
青春なに色・・・どん底色さ
マルクス レーニン 毛沢東
ロシア民謡 革命歌
みんなまとめて さよなら ララバイ
みんな根こそぎ さよなら ララバイ

造花かかえた花売り娘
ここは新宿三丁目
だました男とだまされ女
死ねば天国生きれば地獄
それでも愛を探してた
あんたどうする・・・どん底ぐらし
アメリカ ベトナム ベ平連
ロシア民謡 反戦歌
みんなまとめて さよなら ララバイ
みんな根こそぎ さよなら ララバイ

青春なに色・・・どん底色さ
あんたどうする・・・どん底ぐらし
青春 革命 社会主義
ロシア民謡 労働歌
みんなまとめて さよなら ララバイ
みんな根こそぎ さよなら ララバイ

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“どん底”と私/丸山一昭 -Kazuaki Maruyama-

まだニュース映画というものがあった時代のことである。

一九五五年(昭和三〇年)。そのニュース映画の会社に就職して、最初に現場に出た仕事が、“歌声酒場真っ盛り”の取材だった。勿論、行った先は、“どん底”である。

真中にステージがあり、一階、二階が吹き抜けで天井まで見える。歌手がいて、ギタリストがいる。溢れる客たちは、歌手に会わせて皆、歌っている。まるで黒澤明のセットのようだった。歌っているのは「ボルガの舟歌」や「カチューシャ」といったロシア民謡が圧倒的に多かった。

貧乏学生から抜け出したばかりの私にとっては、その雰囲気はまぶしい存在だった。

ところで翌日、その“どん底”が火事になった。火事の原因は漏電だという。あの掘っ立て小屋のような建物で、撮影用のライトを幾つも点けた私達は、ゾッとして黙り込んだ。それ以来、“どん底”はなんとなく近づき難い存在となった。

それから一二年後、メキシコ・オリンピックに向けて、全日本のサッカーチームは南米に合宿を張った。そこに“どん底”の常連、FWの名選手杉山隆一がいた。すでにテレビ局に移っていた私は、その取材に同行した。

私もかつて明治大学のサッカー部に一年間だけ在籍したことがある。サッカー選手としては落第生の私を、杉山は、先輩、先輩と立ててくれる。一ヶ月のペルー、ブラジル、メキシコの合宿中、よく飲んだ。そしてそのまま“どん底”まで続いた。彼が連れてきてよく一緒に飲んだ女性が、いまの奥さんである。

そして、“どん底”とは、また途切れた。


一九八八年、テレビや、出版、演劇関係の親しい仲間たちとツアーを組んで、私はスペインに行った。

「マドリッドに行ったら、サトシに逢いなさい。電話しといてあげるから」
と、富士真奈美さんが言う。サトシとは、矢野智さんのことだった。マドリッドで“どん底”を開いていることを知らなかった。

マドリッドの六日間、私は毎晩矢野さんと逢って食べて、飲んで、話した。新劇の役者だったこと、原爆の経験、NHKテレビ小説「鳩子の海」のモデルだったこと・・・・、尽きることはない。初めて矢野さんの過去を知ることになった。

私は、これをどうしても本にしたくなった。いろいろと紆余曲折はあったものの、作家の井ノ部康之さんに頼んで「新宿・どん底の青春」(朝日新聞社)として世に出すことができ、一〇年前の四〇周年記念パーティーに間に合った。

今年、住み慣れたスペインから矢野さんが戻ってきた。また新しい出会いが、新宿から始まる。歳はとったが、“どん底”は青春時代に私を帰してくれる。

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