1993年(平成五年)

私と「どん底」/了木伸也 -Shinya Ryoki-

五〇周年記念日、おめでとうございます。

どん底=矢野智君と私との関係は幼稚園時代から今日までズーと続いている。

幼稚園時代の彼は大らかな性格の持主で協調性にも富み、みんなから慕われていた。中学校から別の中学校に移ったのでよく判らないが、どこでももてる男であった。ある時期には俳優を目指した時期もあった様だが、どん底のオーナーの方がよかった様に思う。

矢野君が東京に居るときには吾々グループはどん底に良く通ったものだ。併し小便に行くと云ってそのまま帰ったようなことはしなかった。この辺は井ノ部康之氏の「どん底の青春」に良く書かれている。

平成五年七月、税理士さんのグループ一五名と共にスペイン、ポルトガル、モロッコへ行くことになった。その時、添乗員の人にマドリッドに行ったら高級日本料理店「どん底」に行きたいと云ったら添乗員はその通りにしてくれた。

平成五年七月十四日夕方、スペインの「どん底」の前に一行一五名が揃った。周りのスペイン風の家とは全く違った高級日本料理店「どん底」があった。隅から隅まで日本料理店らしさを出して、入口の右側には「シシおどし」があった。吾々の一行は席についてすぐ矢野君が挨拶してくれた。「ようこそ、どん底へお越し下さり有難うございました。今日はジブラルタル海峡で朝とれたマグロの刺身が出ています。これは特別に手配して入手したものです。潮の流れの速い所でとれたマグロは珍重がられています。大体ニューヨーク、ロンドンへ売られて行く品物です。お酒は色々用意しています。どうぞごゆっくり召し上がってください」。流石にマグロはおいしかった。一行の内の外の人もおいしいおいしいと口々に云っていた。私は矢野君の友情に感謝した。二時間余りの宴会を終えて、どん底の前で矢野君を中心にして写真をとって別れた。

どん底の店は満員で活況を呈していた。
翌日、午後の飛行機で帰国の途に着いたが、どん底の発展と矢野君の健康を祈っています。

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佐賀んもんの相ちゃん/太田順三 -Junzo Ota-

人はいろいろな縁(えにし)に結ばれて人の輪を拡げてゆくものである。『どん底』と私との出会いもそんな縁なのかもしれない。

もう二〇数年前になる。いくつかの大学をかけもつ非常勤生活という不安定な生活から解放され、九州の佐賀大学の助教授のポストに口が決まった。学生時代、唐津には足を伸ばし「おくんち」をみたことがあるが、葉隠れの里でもある佐賀は不案内の土地柄であった。

しかも単身赴任であった関係で官舎にも入れず、下宿先を見つけねばならなかった。当時佐賀には格別の下宿屋は少なかった。幸い前間さんという同僚の先生の奔走で二間に台所と風呂、そして小さな庭付きの離れ風の家が見つかった。長崎街道に近く、前には多布施川疎水の清流が流れ、幕末に佐賀藩のアームストロング砲を鋳ったという旧跡地に日新小学校があった。しかも歩いて一・二分の距離には五・六軒の飲食街があり、そのうち「楫(かじ)」という店にはその後よく出かけたものである。大学にも歩いて通えた。下宿先のまえには、大学の先輩である七田秀徳氏の豪邸もあった。佐賀は鍋島藩の城下町で、静かなたたずまいの家が多い。身分相応な下宿ぐらしは快適で楽しくもあった。

この下宿の大家さんが他ならぬマスターの相川紘一郎氏の実家であった。私は佐賀には足かけ六年いたが、三年目だったか四年目だったかに相ちゃんのご両親が横浜から佐賀に帰ってこられた。のんびりと余生を過すためとのことであった。伊八さんと美恵子さん共々お元気で矍鑠としておられた。長男である相ちゃんへの思いもそれだけ強いのか、高校時代のこと、そして『どん底』のことなど、店子のよしみでよくお話を伺った。かくしてまだあったこともない相ちゃんの人物像がほぼ描けることになった。

私もあるめぐり合せで現在の職場に呼び戻され、東京に帰ることとなった。内心は佐賀に留まりたいと思ったのも事実である。「佐賀の自然と文化を守る会」の活動や「稲門会」・県の文化局の関係で交友の幅も拡がっていた。しかし家族のこともあり、折角の機会でもあるので帰郷することに決断した。

『どん底』での相ちゃんとの初対面は、御両親から話はよく聞いているとのことで大変歓迎してもらったのをよく覚えている。私も従兄弟同士のような気持ちで『どん底』はすっかり憩いの場になった。新宿を通るときは、時間の許す限りちょくちょく顔を出し、チーフの富さんの料理に舌鼓した。二階の暖炉に火の燈ったのも覚えている。

そういえば、私が『どん底』にかよい始めてから、『どん底』界隈も大きく変わった。客に愛されていた岡ちゃん、居留地の副田君の突然の死もいたましかった。国際歴史学会でマドリッドに行った時、スペイン店に行きかけて行けなかったのも残念なことだった。

封建制の苛烈な社会が生んだ言葉に「佐賀ん者の歩いた跡には草もはえない」という箴言がある。しかし佐賀んもんの相ちゃんにはこの言葉は通用しないのではないか、相ちゃんの背後には多くの従業員が育っており、なかには独立してつぎつぎに店を開く人もあるという。

とりわけ相ちゃんには、五〇年の歴史を彫む『どん底』という不朽の名酒房がある。そして我々にこの憩いの空間での語らいをいつまでも得つづけさせてと願わずにおれない。

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