1994年(平成六年)

僕の「どん底」/清水元彦 -Motohiko Shimizu-

一九九九年の一〇月、もう間もなく二年になるのだが、不覚にも脳梗塞で倒れ、死の淵から生還して、まだ左半身が麻痺しているというのに、杖を補具としての三点歩行が可能になった瞬間、それ以来初めて飲みに行った店が「どん底」であった。そんなことは一言も言っていなかったのに、誰から聞いたのか相ちゃんはちゃんと知っていて、「おいおい、大丈夫かい」といささかの心配はしてくれていたけど、まったくいつもと変わらず、いつものテーブルに案内してくれた。

僕の学生時代からだから、もうかれこれ四〇年になる。その間、南米にいた三年と病院生活の1年半をのぞいては、のべつまくなし、ではないけれどよく通った。世相やお客は変わっても、僕の「どん底」は何も変わらない。四〇年もの間、僕の中出こんなに変わらないお店など他にありはしない。相ちゃんもあの紅顔の学生時代と少しも変わらない。厨房の富澤さんもちっとも年をとらないで、いつも笑顔でいてくれる。

変わらないことで言えば、大変な失敗をしたことがある。七、八年前、わが女房とマドリッドに行ったときのことだ。プラド美術館を後にして、比較的高級な骨董街をブラついていたら、ふと「どん底」の看板が目に入った。「そうか。ここか、どん底のスペイン店っていうのは」と気づき、たまらなくうれしくなって入ってみた。すると何と、昔の、うろ覚えの矢野さんが立っているではないか。思わず「矢野さん」って声を張り上げたのだが、矢野さんはけげんな顔で僕を見つめている。矢野さんにしては妙に若々しい。顔に張りもある。第一こんなに背が高くはなかったはずである。果たしてけげんな顔の矢野さんは、息子さんだと知って大いに恥をかいたことがある。

それにしても、足しげくかよっていた学生時代、いつも誰かが一緒だったのだが、皆目思い出せない。しかし、そこで初めて知り合い、何度か親しく飲み交わした男に手ひどい詐欺にあったことも、今ではなつかしい思い出である。

どうかいつまでも変わらない「どん底」であってほしい。

目次へ

私とどん底/戸谷保方 -Yasukata Totani-

新宿どん底、銀座どん底ローザンヌ、マドリッドどん底、昭和二〇年後半の第一店舗は、まだ新宿そのものが未整備でありその中でどん底が精力的に開業していた頃を頭に焼きついている。

その後何年か過ぎ三四才頃銀座ローザンヌにて私事でオーナーの矢野智さんを紹介され話が弾み建物・店内のインテリアさりげなく配置されている客席のセットをよく見ると彫刻家の本郷新先生のバックバー、椅子の金具等今から思ふとさきがけた店だと思ふ。その後現在の要通りにある新宿どん底店に行き地下1地上三階までの各層趣きの違った店であり、三階は歌声酒場風で楽士さんも置きロシア民謡等客のリクエストに答えていた。

地下一階二階ではその僧に応じた客が、客同志又客と従業員が酒と共に会話を楽しみながらくつろいでいた。又出来る限りペチカの火をたやさず赤い焔の交りがより印象的だ!!

此の店も本郷先生手作りの装飾金物がうまく取り入れられていた。
その一部がオーナーから頂き現在も我家にて愛用している。

何年か経ちどん底マドリーを開店していた。矢野さんにヴァルセロナから電話をするとエアーバスがあるから来ないかと云われ直様マドリーに行き深夜の街を満喫させて頂きました。開店五〇周年御目出度う御座居ます。
今後共店の周圍の蔦の様に根強く皆様の御健康御発展を楽しみに致して居ります。

目次へ

美輪明宏 -Akihiro Miwa-

どん底の五〇周年と、私の芸能生活五〇周年とが同じだなんてまぁ、なんて間(ま)が良(い)いんでしょ。きっと前世では、私と“どん底”は、きっと夫婦だったのかも知れません。

あの青春時代、“どん底”で逢いびきをした、ボーイフレンド達の顔、顔々。あのアコーディオンの音色。橙々色のランプの光。ねええ私の愛しいどん底君。今後はお互仲良く百句周年を迎えましょうね。

貴方のミワアキヒロ

目次へ