2000年(平成十二年)

「急ぐ男」より/うつみ宮土里 - Midori Utsumi -

憲司は新劇の研究生だった頃、よく通った店に彼女を連れていった。丸太の柱を組み、壁はレンガを積んで作った奇妙な一軒家の居酒屋だった。

「ここだよ。新子ちゃんのために急に思いだしたんだ。ここも君が好きなロシアの香りがするよ」

彼女は看板を見て、

「あら、『どん底』、ゴーリキーのお芝居だわ」

素っ頓狂な声を上げた。
店のあちらこちらに黒く煤けた短い階段があって、段差のあるフロアーが無秩序に作られていて、昔のランプのような照明が下っていた。ルパシカを着た若い男に案内されて、中二階の一角にあるテーブルにふたりは着いた。

「まるで舞台装置みたい。これはきっと『どん底』の舞台のつもりで作ったのよ」

新子が目を輝かせている。

「憲司おじさんは、若い頃、こういうお芝居を演りたかったの?」
「演りたかったね。ペペルを演りたかったなあ」

新子は店の中を珍し気にながめていた。

「僕は劇団の仲間と毎晩ここに来ては、ロシアにそんな食べ物や飲み物があるとは思えないけど、この店の『焼き飯』と『どん底カクテル』という安い酒を飲んでいたんだよ」
「ステキ。おじさんの青春のそれを注文して」
「それじゃ、まず『どんカク』をお願いしよう」

ルパシカ姿のボーイが笑って頷いた。
『どんカク』は焼酎に柑橘類のしぼり汁を混ぜた酒だ。

「おいしいは。憲司おじさん、こんなの飲んでいたのね」
「昔より焼酎の質がよさそうだ。あの頃は飲み過ぎると決まって頭が痛くなった」

憲司は思い出して笑った。

「憲司おじさんも若い頃は貧乏だったの?」
「勿論だよ。あの頃は仲間とよくここへ来て、遅くなるまで演劇の話をしたあげく喧嘩になったこともあったな」
「羨ましい。私もその頃、憲司おじさんと会って、『どんカク』飲んで、朝まで喋っていたかったわ。私、どうしてその頃生れなかったのかしら」
「どうしてだろうね」

憲司は新子に話を合わせた。
蒸してほぐした鶏肉に豆を入れた炊き込みご飯を、ケチャップと胡椒で味付けした焼飯が運ばれてきた。それに酢漬けのキャベツとソーセージが並んだ。

「憲司おじさん、もっと話して」

新子が何杯か飲んだ『どんカク』で目の縁を赤くしている。

「一緒に勉強していた研究生の女の子がいたんだ。イングリッド・バーグマンに似ていた娘で、仲間たちの話を黙って聞いていた。電車がなくなると、その娘のおばさんで小説家志望という四〇がらみの女の人のアパートに行った。高円寺にある古びた狭い部屋に皆で押しかけて泊まるんだ。僕たちは金がないから電車がなくなると自分の下宿に帰れないので、芝居の話をしながら新宿から高円寺まで歩くんだ」
「憲司おじさん、そのバーグマンの女の子を好きだった?」
「うん、好きだったよ。けれど皆も好きだった。だから誰もが牽制して独り占めにできなかった」
「やはり私、その頃生れていたかった。そして一緒に高円寺まで歩きたかった。」
「あの娘もおばさんも、今はどうしているかな」
「バーグマンは女優にならなかったの?」
「僕が映画に出るようになった頃、彼女は結婚したらしい。彼女に惚れ込んだアパレルメーカーの社長夫人になったと人づてに聞いている」

忘れていた青春時代の思い出話を新子に聞かせた。彼女は楽し気に合の手を入れ、彼に話をせがんだ。ふたりして『どんカク』を何杯も飲んだ。

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甘中忠幸 - Tadayuki Kannaka -

私の好きな“どん底”
「酒と泪と男と女」
そのもの。
これからも大切な
私の居場所!!

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