ドンカクの唄/金子光晴

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金子光晴写真  ドンカクをなみなみ注いで
コップをまえにおくと
ふしょうぶしょうに
この世界はうごきだす。

もう、どっこへもゆくところは
ない筈なのに、星は、
目をしょぼつかせながら
案内するために、しかたなし

もう一度、カンテラをともし
虫のやうに、あるきだす。
 ドンカクをなみなみ注いで
コップをまえにおくと、

満ちてきた潮が、にわかに
桟橋の杭をたたくような
ざわめきがおこる。
僕のうち側でも。
 ドンカクをなみなみ注いで
コップをまえにおくと、
もとより一滴ものまないで
坐っているこの僕にも、

人間の欲望がふくれあがって
嵐になって吹きあれて、
ナイフが飛び、カーテンが舞い、
僕をのせたまま、椅子が、

ズボンを穿いた女サルトルや、
男にちやらつく四十男とともに、
宙にうかび、天井に脊がはりついて
どう取りしずめるすべもない

 ドンカクをなみなみ注いで
コップをまえにおくと
コップのふちにつかまって
小さな人魚達が唄をうたう。

“おいで、放蕩者、
お前が死ぬときに
悲しむのは
この母一人だよ。

お眠り。私の腕で。
お前がどんな悪党でも
私にはおなじだよ。
かわいい坊やだもの”