1997年(平成九年)

暖炉の前は特等席/佐藤治重 -Harushige Sato-

厚い扉を、思いっきり開けると「ヨウ、ハルちゃん」、相川さんの一声。僕はこれがたまらなく好きなんです。その日のイヤな事や、疲れが、すっとんでしまうんです。いつの頃からか、止めてしまったけれど、僕は、二階に有った暖炉が好きで、冬の間中、いつ行っても、暖かい火が入っていた。真先に二階まで駆け上がると、そこには、煌々と燃え上がる炎があった。待たせていた恋人にでも会う時の感じかな。体の芯まで、暖めてくれた事を覚えている炎だった。グラスを片手に揺々と揺らぐ炎を見つめていると、煩らわしかったその日の事が、溶けるように心が癒されてくるんです。新宿のど真中で、暖炉に薪をくべれるなんて、贅沢な空間ですよね。

そんな暖炉の前のカウンター席が、僕の特等席でした。今は懐かしい想い出の空間だが、そんな場所が、ここ新宿どん底にあったなんて幸福者ですよね。

相川さん、「ヨウ、ハルちゃん」を、又、扉を開けたらよろしくたのみます。
本当に五〇周年、おめでとうございます。

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「レイコウ」のこと/永井五郎 -Goro Nagai-

レイコウと呼ばれたこの男、本名を「矢野智」という。
旧制中学校の仲間うちでは、「ヤノレイ」もしくは「レイコウ」で通っている。

親から授かった名は「怜」であるが、誰も「さとし」とは呼んでくれない。中学一年のとき彼のクラスには、「矢野」姓を名乗るものが二人いた。授業に来た教師が出席簿を読み上げるとき、同姓の者がいると姓に名を添えて呼ぶのが常であったが、どの教師も彼の番になると「矢野」のあとが続いて出てこず、一呼吸おいてから「レイ」と読み上げていた。そんなことから、彼は「ヤノレイ」が呼び名になり、教師のあいだでも通用するようになった。

ある学期末考査で、数学の問題用紙が配られると、ものの五分も経たないうちに、ヤノレイは答案用紙をさっさと教壇に差し出すと、そのまま前のほうの出入り口から鷹揚に出ていった。みんな目を見張って彼を見送った。それは難問を早々と解いたことに対する驚きというよりも、教室への出入りは後ろの口からという御法度を無視したことへの驚嘆の眼差しだった。

後日、答案用紙が担任によって各人に戻されるとき、「ヤノレイよ、考査の採点は先生がするもので、生徒が勝手にするもんではない。白紙のまんま、しかも大きな○の下にご丁寧に二本のアンダーラインまで書いてさしだすとはなんたることだ!」という担任教師の叱責で教室内に拍手が湧いた。

ヤノレイのいさぎよさと反骨精神に対する喝采であったことは言うをまたない。

こうんあことがあってからヤノレイには「公」の尊称が与えられ「レイ公」と呼ばれるようになった。

それが「怜公」なのか「零公」なのかは今もって定かではない。

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