1996年(平成八年)

山下洋輔 -Yosuke Yamashita-

『どん底』の知り合いと言うにはおこがましい新参者、末席者、横入り者です。岸田今日子吉行和子富士真奈美のお三方のご紹介で、矢野さんに初めてお会いしたのが数年前のマドリッドでのコンサートの時だった。分かりにくい学生会館のような会場までわざわざおいでになり、喜んでくれた。一方で、私の従姉妹夫婦が若いころから矢野さんと知りあっていて、今でも兄貴分とあがめているという背景もあったから、出会うべくして出会ったという感じだ。

その後に『新宿・どん底の青春』(井ノ部康之)という本を知った。読んで、あらためて一つの『店』の磁力とその歴史に驚嘆した。あの頃はこちらも新宿をうろうろしていたのだが、ラリパッパのジャズ一派で、『どん底』には近寄ることはなかった。しかし、本によればジャズ喫茶『キーヨ』に朝まで溜まるなどの接点があったり、後にできた系統店の『がんばるにゃん』や『陶玄坊』にはよく行くようになるから、結局は矢野文化圏との接点はずっとあったということになる。あの頃の同じ新宿の空気を吸って生きてきたと思うと、それだけで仲間という気になるのは不思議なものだ。

横入りのずるは、とうとう、お三方が参加する矢野さんご自宅での今年の新年食事会に乱入するという結果となった。素晴らしい酒肴に陶然となり、そこにあったピアノ、ちゃんと調律してあったよなぁ。やはり矢野さんお見通しだったか。かなわねえ、と今になって気づく未熟者であります。

目次へ

ブラボー ブラボー 五〇周年/大谷英之 -Hideyuki Otani-

私は五〇年前(昭和二六年)の春、高校を卒業し、かの有名な『湯布院』を後に上京した。この同じ年に『どん底』が歌声酒場として産声をあげたのも何か因縁めいたものを感じる。学校卒業後社会人として三五年間のナガーイお交際(つきあい)でしたが、定年後はふる里、湯布院に帰り小さな宿のオヤジをやっていました。四〇周年の知らせがあったときは、仕事を放っぽりだして厚生年金会館に駆けつけたことも未だ遠くないように思はれるが、それからさらに一〇年も経つとは驚きだ。私の人生の半分、『どん底』は私にとって青春そのもので思い出いっぱいだ。

これから思い出を語る前によき仲間であった、本郷淳、山本太、林、アコデオンを弾いてくれた笠原、四氏に黙祷をささげます。

若い頃は金に恵まれることなくたまにバイトで金が入ると仲間とドンカクでストレスを解消、憂さを晴らした。似たような種族が多くいつも満員で立ったまま飲んでいる光景も珍しくなかった。あるとき私が立ちのみをしていたとき、三階で飲んでいた女性客が階段から転がり落ちるのを受け止めたこと、きっとドンカクの口ざわりの良さに、遂ゝに杯を重ね自分の酒量を超え足をとられたのだろう。あるときは飲み代不足になったのか、はじめから飲み逃げするする積りの不逞の輩か、トイレの窓から這い出そうとしている奴の尻を押し上げるのに手を貸し、あとでバカなことをした。これは自分の胸に隠していた。智さんゴメンナサイ。ある日新宿発長野ゆきの一番電車に乗るため従業員のねぐらで仮眠をとらしてもらった夜明けに大きな地震発生とび起きカメラを掴んで二丁目(赤線)に一目散に走った。予想どおりの光景に出合わせた。洋服を抱え裸足の男、寝まきらしきもので胸をかくしている遊女、パンツ一枚で鞄だけ抱きしめてる男、カメラを向けると座り込み両手で顔を隠そうとする女、全身に刺青を彫った屈強な男が拳を振り上げ威嚇するお兄さん、レンズにくるりと背を向けた中年紳士、当時に写真週刊誌があれば高價な値がついた筈。

ある日、放火で全焼した焼け跡に呆然と立ち尽くしていた智さんのやつれ果てた顔のこと。数々の思い出の中に六〇年安保反対の垂れ幕が三階の窓から下り、一階の重い扉に、アメリカ人の方はお断りの貼り紙のあったことが強く印象に残る。モスカ芸術座の全員の署名した布など。
銀座にあった『どん底』で牟田梯三さんの結婚披露宴の撮影したことなどが走馬灯のように、『どん底』は私の青春そのものだ。

いま原稿を書きながら、四〇周年の記念に頂いた桝でひや酒を飲んでいる。四〇周年の黒い文字はアメ色になっている桧の桝に鮮明に残っているが、赤インクの『どん底』のロゴは幽かに輪郭だけは読みとることができる。あれから一〇年を経過してるのだから仕方のないことだ。もう直ぐ五〇周年の文字と赤い『どん底』の文字のすっきりした桝を頂くのを楽しみに上京しよう。その頃の湯布院は紅葉の一番きれいなときで、脂ののりきった『関鯖』をさかなにその桝でぐーっと飲むことを夢みている男。

目次へ